意識を取り戻したものの、私は、隔離病棟に置かれた。
錯乱状態のように見えたらしい。
ただ、意識を取り戻して以降の記憶ははっきりとしている。
弁護のように思えるかもしれないが、私は、正気だった。
医者が自分を助けてくれたという認識はちゃんとあった。
その彼から逃れようとしたことを後悔もした。
残念なことに、精神を病んでいるという先入観でみてくる医者達には、それは伝わらない。
そして、もう一つはっきりしていることがあった。
それは件の医者-彼をAとしよう-が目の前にいるととてつもない恐怖がこみあげてくることだ。
それが、折角意識を取り戻した自分の立場を悪くすると理解していたから。
私は、極力この恐怖を抑えていた。
半年程経過する間に待遇が、微々たるものだが向上。
私の知るより、白髪の増えた両親とも再会した。
とても複雑な顔をしていたが喜んでくれた。
妙にキテレツなファッションをして、私を笑わそうとする努力も絶やさない優しい父母だ。
私の心は、Aの診察の時以外、穏やかなものになった。
はやく退院して、仕事を決め、両親を安心させたい。
そんなささやかな願いを抱きはじめた。
そんな願望は、院長先生自らの診察の時
当分退院出来ないとはっきりと告げられて砕け散った。
250: 2 2011/06/30(木) 15:39:41.54 ID:Vn9h8hXS0
両親以外、誰も面会に来てはくれない生活。
医者と看護師以外、まともに会話できる知性のある人もいない。
テレビを一日中みつめて涎を垂れ流している老婆や
拘束服に身を包ませられながら、こちらを血走った目で見つめてくる男といった
おぼろげに覚えていた平和な日常とは、まったく違った環境。
段々と、病院そのものが、私の精神を疲労困憊させていった。
患者の立場で退院を求めても、医者の立場でそれを拒否される。
バイトをして稼いだお金を両親に少しでもお礼として渡したい。
それがダメなら、せめて、毛糸で編物をして両親にプレゼントしたい。
これらの望みも却下されてしまった。
病院の仕事の手伝いをするから、十円でいいからお願いしますといってもダメだった。
その十円で、駄菓子でも買ってきてもらって、自分の手で渡したいと思うことすら許されない。
両親にその悩みを打ち明けると、両親は大層喜んだ。
「そのうちきっと、あ○○○(しゅばとかしぇばとかそんな音)様がお前を助けてくれるよ」
無情にも時間だけが過ぎていった。
私は病院で25、26のバースデーを迎えてしまった。
両親がケーキをもって祝いにきてくれたのが救いだった。
その間、あ○○○様の名前をなんども聞いた。
発音しにくい名前をやたら正確に発声していたから
呼び間違えてはならない名前なんだと察した。
私のせいで、両親がカルトにでもはまったのかと思うと
夜中に唐突に涙が溢れて、一睡もできない日もあったように思う。